社会科学基礎論のために

民族を考えることが鍵である

 民族を考えることが鍵である。
 民族は、社会を考えるうえでの鍵であるとともに、自我同一性について、つまりは、意識について考えるうえでの鍵なのである。

民族とは何か

 民族とは何か。それは国際関係上の主体として振る舞う。しかし、一方で、客体として(何らかの諸変数を組み合わせた計算の結果として)捉えられる。民族は構成要素である個々人を規定し、個々人は民族を規定する。だけれども民族をその構成要素に・特定の個人に還元することはできない。構成要素(個々人)は、明確に(同一律矛盾律排中律に従って)民族に所属したりはしない。常にゆらぎを有する。

主体の本質

 構成要素がゆらぎつつありながら、その集合体が、主体性を帯びてたち現われるということ、民族において典型的に示されるこのことは、実は、あらゆる(主体とされる)事物の本質なのだと言える。
(近代科学は、道具立てが乏しくて、主体と客体が明確に分離でき、同一律矛盾律排中律が成立する世界を(さしあたって)仮構していたのである。今はその先に進まなければならない) 
 構成要素によって規定されつつ構成要素を規定するということ、構成要素はゆらぎの中にあるのだということ、集合体は構成要素には還元できない主体性を有するということ。これらの現象が解き明かされなければならない。
 民族・言葉・生命・脳・意識それらは、これらの現象を等しく有する。だからこそ民族を考えることは意識を考えることにつながるのである。

数学の創始

 それらが貫き通されて、一つの展望のもとに捉えられるためには、数学が創られなければならない。
 創られるべき数学の手がかりを我々は、既に得ている。
 統計力学グラフ理論情報理論においてである。
 例えば、ニューラルネットワークを用いた連想記憶の議論によって、同一律矛盾律排中律を越えたその先に、事物のあり方を基礎づけることができる。
 そうした数学的な操作を道具立てとして有してはじめて、民族の本質を捉えることができるだろう。そして民族・言葉・生命・脳・意識を討究していく過程で、そうした数学は数学としての発展を遂げるだろう。