愛蘭土倫敦紀行 ダブリン・ロンドン4泊7日の旅(14)

ユニオンジャックが舞って

 この瞬間のこの構図が、この旅で一番感慨深かったように思います。
 ウエストミンスター宮殿を訪れたときでした。地下鉄のSt.James Park駅から出て、歩いて進み、ウエストミンスター寺院の前へと至ると、その背後にヴィクトリアタワーがそびえてあり、そして、その頂きにはユニオンジャックが舞っている。そういう情景でした。
 それはきわめて戯画的なものでした。ゲーム的である、というふうにも言えるかもしれません。ファンタジックでシンボリックなものである、という点においてそうでした。
 ヨーロッパの街にある塔、として描かれるであろう、範型的な塔であり、国威の発揚、として描かれるであろう、概念的な行為でした。戯画的でありながら、それでも圧倒的な力を持っていました。重厚な塔に舞う大きな旗に、超越的な意志がありありと感じられました。
 感じられる超越的な意志は、それが何らかの意志ではあるけれど、どういう意志かは分からないもののようでした。誰もの意志のようでいて、個々の誰の意志でもないようでした。集合的で匿名的な他者性を帯びていました。ユニオンジャックという、これ以上ない国体の表象が、そういう様相を帯びて、舞っているのでした。
 たとえば子供の頃、晴れた休日の青空を飛ぶヘリコプターからなされる広報に、私は、そうした集合的で匿名的な得体の知れぬ超越性を、感じていました。そうした体験のきわめて純化されたものが目の前にはありました。
 私の書いたものに「偽りの王」というのがあります。ある日、城壁の上に王が立っていて、王は民衆に石を投げつけられて殺されてしまう、という話です。集合的で匿名的な、それでいて圧倒的な力を持つ得体の知れぬものを描出しよう、という自分なりの試みでした。
 私がウエストミンスター寺院の前にあって、ヴィクトリアタワーを見て、感じていたものは、「偽りの王」の舞台が、現前しているのだということでした。
 私はまさにこの塔に立つ「偽りの王」の姿を見ていました。
 そして、この「得体の知れぬもの」はきわめて戯画的なのだけれど圧倒的に本物でした(本物であることと、戯画的であることは両立します。たとえば漫画SLAM DUNKは、木暮クンに対して現前している牧を「本物」として描きますが、それは確かに「本物」です)。
 自分がもし19世紀の日本人で、そのときに、ここを訪れていたら、ほとんど腰は砕け、膝は折れ、突っ伏していただろうと思います。大英帝国の威光の前に、何の技術も財力も文化もない祖国たるアジアの一小国の卑小さを痛感し、何の後ろ盾ももたぬ自分の寄る辺なさを覚えたろうと思います。激しい狂乱の中で、むせび泣いていたかもしれません。
 21世紀の自分は、それでも己を失うことなく、深い感銘を受けて道を進んだのでした。