愛蘭土倫敦紀行 ダブリン・ロンドン4泊7日の旅(1)

旅のはじまり

 イタリア・フランスを巡った、夫婦・卒業旅行以来、実に8年ぶりに海外旅行をすることとなりました。
 思えばこの8年、臨床医として走り続けた日々で、とても海外旅行など考えられない状況でしたが、ここへきて大学院生という立場を得て、ようやく一息をつくことが出来たわけです。
 
 行く先は、ダブリン・ロンドンです。
 ダブリンには、わが姉が夫と二人の子供とともに住んでいて、姉の家を訪問する、というのが、旅の計画の出発点でした。
 もちろん、いくつかの逡巡がありました。
 どこに何泊するか?
 休むことのできる仕事は事前に休みにしておき、代わることのできる仕事は代わりをお願いし、それでも、なかなか代わりを見つけられない仕事がある。そんなこんなで、とれる休暇は最大一週間。水曜の夜から、火曜の夜までの、4泊7日(機内泊2日)が海外旅行に使える時間です。
 姉家族のところを訪問する、のが目的なのだから、アイルランド4泊の旅を予定するのも、一つの方法です。
 でも。と、私は思いました。ヨーロッパは遠い。そうそう何度も行けるわけではない。アイルランドは、言っては悪いが、決して人気の観光地ではない。かの司馬遼太郎は『愛蘭土紀行』の文末で、行かないで本を読んで思いを馳せてもそんなにかわりがない、という趣旨の、紀行文の結論としては驚天動地のことを書いている(こんなこと司馬以外の誰も書けはしない。書いてはならない)。
 ともあれ、ヨーロッパ観光と姉の家の訪問は割り切って考えるべき、と思いました。
 抱き合わせで、思いついたのは、そしてこれは誰もが思いつくことだと思うのですが、お隣の国イギリスの首都ロンドン(この二国には、気安くお隣の国などと、呼ぶことのできない、過酷な歴史があるわけですが)でした。
 もっとも、この地理的な距離の近さは必ずしも、旅程上の近さを意味しないわけで、実はこのあとで、オランダのアムステルダムやUAEのドバイなどが、路線の関係でロンドンよりも容易に行ける土地として候補に挙がり、検討されました。立ち現れる、いくつもの候補の中で迷います。
 いや、しかし。圧倒的な力を持って、ロンドンこそを行くべきだ、との思いがわき起こりました。
 アイルランドに行き、その気持ちの中で、向き合うのはイギリスしかないだろう。ダブリン・ロンドンの旅には一つのトーンがあり、テーマがあるが、それは、ダブリン・ドバイには決して存在しない。アイルランドとの組み合わせ、という点において、ロンドンに行くべきだと考えました。
 そして。大英博物館とベイカー街をはじめとする数々のミステリの舞台としての街とに、魅力を感じていました。人生のどこかで、行かなければならない、という思いを、ロンドンには抱いていました。旅の検討をしているうちに、思いは博物館を駆け回っていました。ロゼッタストーン、エジプトの死者の書アッシリアのラマッソス。気分は完全に名探偵でした。「ハドソンさん、お茶を!」
 ダブリン2泊、ロンドン2泊。これが最終結論でした。
 姉には、その日程はハード過ぎる、と言われました。でも、これしかないのだ、私はそう返事をしました。

 そして2ヶ月以上にわたる、格闘がはじまります。
 かみさんの査証取得です。

想定外を想定する = メルトダウンは起きる

 2012年4月6日に決定されたという、原発再稼動のための新安全基準骨子には「燃料損傷に至らないと国が確認していること」というのが、組み込まれているのだそうである。
 馬鹿、である。
 震災から何も学んでいない。想定外を想定する、というのは想定する地震の規模を引き上げるということではなく、究極の状態=「燃料損傷に至る」可能性を考えることである。メルトダウンすることを前提にすることである。
 メルトダウンすることを前提に、その対策を示すこと。メルトダウンして、周囲10kmなり30kmなりを、無人の荒野としても、なおコスト−ベネフィット的に妥当であるということを示すこと。
 それが、想定外を想定する、ということである。

 そうした枠組みで再開する妥当性を説明しえないなら、それは再開する妥当性がない、ということなのだ。
 目先の政治的圧力、事故は起きないという前提でのコスト試算によって、再開ありき、で物事を進めるのは間違っている。

浦沢直樹 プルートゥ

 年末、鳥取に帰省する際に読み始めたビリーバット起爆剤になって、途中までとなっていたプルートゥを買いそろえ、最後まで読むこととなった。
 決して少なくない衝撃を覚えた。
 プルートゥの結末は二重化している。
 憎しみからは何も生まれない、という強い普遍性を持った倫理的なメッセージと、究極の悪を撃つということ、との二重化である。
 究極の悪、ドクタールーズベルトは、個を超え出た、個によっては制御することの出来ないアメリカのシステム的なもの構造的なもののメタファーである。ルーズベルトの描写には、物語の主題がそうと伝えるメッセージとは相容れない、憎悪がある。

アメリカに正義はない

ウサマ・ビンラディン殺害を、アメリカ国民の9割以上が指示する、ということに衝撃を覚えたヒトは多いだろう。
ビンラディン殺害というプロセスには、法的な正当性がない。
パキスタンの主権を侵害しているし、犯罪の容疑者の身柄の拘束ということが、可能にも関わらずそれを行っていない。
つまり、テロルという点において、ビンラディンオバマも、していることは同じなのだ。
にもかかわらず、アメリカ国民は、その行為を賞賛し、熱狂する。

<悪の帝国>

まるで、安易なSFの設定としてある<悪の帝国>のように。
あまりに巨大な帝国の中で、人々はその帝国の不法、不正、不誠実から、目をそらしてそれをそうと認識しない。
実際には、自国の利権をとことん追求し、他国の不利益を省みない、そういう<悪の帝国>である。
アメリカもアルカイダも土俵を同じくする、敵同士ということでしかない。

<裸の王様>

アメリカの風刺漫画で、「テロリストがオレたちを嫌う理由はなんだっけね」というのがあるそうだ。
それについてのアメリカ人の回答は、圧倒的に貧弱である。
アメリカ人は、搾取のシステムを構築して世界の富を収奪している(というふうに、テロリストを要請する世界の多くの人々が思っている)ということに、全く無自覚なのだ。

カダフィ空爆

NATOもまたそうであろう。爆撃によるカダフィの息子・孫の殺傷。明らかに一個人の殺害を意図して、それを紛争の調停と称すことができるだろうか? 普通はできはしない。だが、それをまかりとおしてしまう。それは容認されてしまう。
石油の利権の確保のために、一時はカダフィを容認し、そして切り捨てる、ということがされ、<悪の帝国>の民はそれを受け入れる。

鷹の視点

私達もまた<悪の帝国>の構成員なのだろう。
自らの共同体を越えて、世界を見ようとする気持ちを、世界を見ることのできる力を持とうと思う気持ちを、持ち続けなければいけない。

沙漠の月

 そこには、何もない。
 ただ、漠索と広がる果て無き大地。
 標《しるべ》なく、さまよう無数の民あり。
 枯れた大地に、飢え苦しむ民あり。
 汝、光たれ。
 汝、標たれ。
 沙漠を照らす、月のように。
 行く先示す、月のように。
 慈愛に満ちた、優しき光なれ。