愛蘭土倫敦紀行 ダブリン・ロンドン4泊7日の旅(8)

パワーズコート

 臙脂色あるいはディープピンクといった色合いのバスでした。シートはゆったりめ。居合わせたのはスイスやヴァージニアなど実に様々な国や地域から集まってきた人たち7、8組といったところ。
 年のころ50代、ロバート・デニーロの渋みを少し大阪府松井知事でうすめたような雰囲気の白髪の大柄な運転手が同時にガイドもするのだ、ということが分かります。
 旅はこの運転手兼ガイドの、途切れることのないセリフで進んでいきます。時々交えるジョークが分からない、のはともかくとして。
 街をぬうように進み、その街並みを堪能できるのが面白い。30分くらい走って、海浜の公園に見覚えがあり、姉の家の近くを走っていることに気づきました。そこから少し行ったところ、ブレイという海辺の小さな町で休憩。眼前に海が広がりますが、灰色のなんとも陰鬱な雰囲気。前日ホウス岬が見渡せたのがうってかわって、眼前の小山にも雲が被さっています。
 これぞアイルランド、という雰囲気ではあります。
 風も寒く体も冷える感じがして、日本でならミスタードーナッツというかんじのチェーン店風の軽食のお店で、紅茶を買い求め、すすります。
 そして出発。郊外へと進んでいきます。石造りの教会や、日本で言えば道祖神という位置に十字架があったりする、そうした街並みが面白く感じられます。
 やがてパワーズコート、という庭園が有名なところにつきます。かつて世界一の庭園と称えられていた場所。眼前はゴルフ場で芝生がきれいです。
 庭園は広大でした。建物から出るとイタリア式の庭園が鮮やかな花で彩られ広がっている。その向こうには噴水が見える。順路にしたがって進めば、塔がありファンタジックな魅力がある。日本庭園を眼下に見下ろし、はるか前に見えていた噴水を間近で見て、ペットの墓を過ぎって、花園を抜けていくとあっという間に一時間が経っていました。異世界を楽しめる、非常に満足度の高い庭園体験でした。
 食事は、ブュッフェ形式のお店が入っている。トマトスープと、鮭の焼いたもの、生野菜を上手につかった中国風焼きそば、サンドイッチを食べます。結構いけます。
 おみやげコーナーをちらりとみます。AVOCAという雑貨店も入っていて、織物の展示が美しい。旅は快調、心地よい気持で、再びバスへ。

愛蘭土倫敦紀行 ダブリン・ロンドン4泊7日の旅(7)

バスの旅

 翌日、アイルランド2日目の空は、灰色でした。天気は崩れていく予想となっています。
 体内時計はまだ十分な修正がなされておらず、ダブリンの5時には目が覚めてしまいます。日本の13時くらいです。
 姉から薦めてもらったのは、バスツアーでした。ダブリン郊外南方にグレンダロッホというところがあり、古い教会跡があるのだが、湖に面していて、その湖周囲の散策がとても雰囲気がよいのだとのこと。
 そして、そこは電車では行きにくく、ツアーバスが出ているから、それに参加するのがよいだろう、とのこと。姉の家のパソコンを使ってネットで見てみると、七時間程度の行程で、朝10時の出発。大人26ユーロ(約3100円)、子供20ユーロ(約2400円)。
 遺跡に対する憧れは強いです。
 ネットで予約ができて、クレジットで支払いができるようなので、そのようにしました。ユーロに関しては、現金は200ユーロしか持ってきていないので、なるべく支払えるものはクレジットで支払ってしまおう、と思っていたからでした(本当は前回の旅行で余っていたトラベラーズチェックを使いたかったのですが、この旅行では全くトラベラーズチェックが使えませんでした。年々取り扱いが悪くなっていっているようです)。
 さあ、いざ出発というときになってトラブル発生。娘がいとこたちとトランプして遊ぶから家にいる、と言ってききません。もともとダブリン訪問の主眼は、姉家族を訪れることにあったわけですから、それはそれでいいかもと内心思いました。しかし既にクレジットで支払いを済ませてしまっています。
 泣きじゃくる娘を、なだめすかせながら、出発にこぎつけました。
 昨日姉たちといっしょに乗ったDARTに、今度は家族三人だけで乗ります。娘をなだめるのに必死で気づきませんでしたが、異邦の地にアジア人家族三人が放り出されたわけです。一駅一駅の到着に、昨日とはまったく異なった神経をとがらせながら、進みます。そうすると車内アナウンスが、英語とゲール語の二本立てになっているのが、よく分かり、興味深かったりします。
 昨日のPearse駅より一つ向こう、Tara Street駅で降ります。地図を片手に、橋を渡り、市街地をつっきって旅行センターを目指します。娘の説得に手間取って、だいぶぎりぎりの時間になっています。名所も目に入らず一心に進みます。
 旅行センターは清潔で簡素な建物でした。緑を基調とした明るいセンター内に、若い女性が二人ばかりいて、そのスタッフにメールのコピーを見せます。スタッフ間のやりとりに、なんとなくシステムをあまり把握していない感じが伝わってきます。
 ともあれチケットがやがてプリントされて、これでいいよ、と手渡されます。いってらっしゃい、ってかんじで、話が終わってしまう。おいおい。どこいったらいいの? と聞く私に、スタッフは予期せぬような早口で言います。右曲がって2ブロック目のところ、ここから300mくらい、×××っていう建物の丁度目の前くらい。
 要求されるレベルの高さにびっくりします。観光客には無理だってそんな案内。それじゃ分からん、というと、あ、地図に書くね、ということになって、地図に書いてくれます。何時までに行ったらいい? と聞くとにこやかに9時55分と言います。これもまたびっくり。今9時57分だってば。
 するとこの若い女性スタッフはにこやかに、あ、じゃ今。と言います。
 この独特の、陽気なヌケッぷりは一体何だろう? と思います。
 ともあれ、急いで進む。赤や黄色の観光バスが並んでいて、これかなあれかな、というふうに詮索する。やがて、GPO(郵便局)が名所であることが分かり、その郵便局の向かいに停まっているバスがそのバスであることが分かります。

愛蘭土倫敦紀行 ダブリン・ロンドン4泊7日の旅(6)

アイリッシュパブ

 市内から再び姉の家へと戻る。時差が8時間あるので、24時に関空を発ってから、移動づくめで26時間経つが、まだ夕食をどうするか、という時間。襲いかかる眠気のなか判断します。
 娘はいとこたちとともに家で姉のつくる食事・私とかみさんとは義兄に連れられてアイリッシュパブへ、ということになりました。
 義兄の車で、郊外へと進みます。うっそうと生い茂る森や牧草地やらを縫うように進んでいく。20時近くになっていましたが、まだ夕方の明るさの中にいます。
 訪れたアイリッシュパブは、JOHNNIE FOX'S PUBというところで、1798年設立だそうです。牧草地に囲まれた閑静な環境にあり、建物はアンティーク嗜好の趣あるものでした。席がとれるまで、屋外のテーブルでギネスビールをいただく。とても泡立ちがクリーミィーで感動します。
 屋内にうつり、案内された席に座る。室内の装飾もアンティーク嗜好なもので面白い。人気店で満席でした。弾き語りをやっていて盛り上がっています。ムール貝・生牡蠣・アイリッシュスープ・パイ皮で包まれたのクリームシチューをいただく。
 ムール貝や生牡蠣は、海に囲まれた環境での素材が勝負の料理で、日本人にもよくなじみの食材ですから、期待を裏切りませんでした。おいしくいただきます。アイリッシュスープは、いわゆる肉と野菜のごった煮で、セロリとベーコンが良く効いています。滋味深い、胃腸にしみじみ効くかんじ。落ち着きます。
 どの皿にも付け合わせにジャガイモがついてくる。しかもご丁寧に、ゆでただけのものとマッシュポテトの2種類。このジャガイモがとてもうまい。さすがアイルランド。小麦はイギリスに納めるために作り、自分たちのためにはジャガイモだけを作る、という多様性が失われたモノカルチャーの結果、手ひどい飢饉がアイルランド全土を襲い、アメリカへの移民を促した──というのは名高い話です。アイルランドのじゃがいもは、世界史的な意味合いのあるものなのです。
 私とかみさんと、それに義兄さんという、普段はない組み合わせでの食事会。心地よい体験でした。
 帰りは、日本での朝5時くらい。眠気が襲って意識を失い、気づいたら家でした。
 娘は姉のつくる日本食を食べ、いとこたちとババ抜きを楽しんで、寝てしまっていました。

愛蘭土倫敦紀行 ダブリン・ロンドン4泊7日の旅(5)

グラフトン・ストリート

 トリニティカレッジを出でて、歩いて進むとグラフトン・ストリートという石畳のおしゃれな通りに出る。歩行者専用となっていて、ゆったりと歩くことができ、道ばたではパントマイムや砂でつくるアートや、ミュージックやらで賑わっている。
 店の並びも趣深いものがある。ステンドグラスが自慢の御茶屋さんに入る。紅茶販売と喫茶があり、美味しそうなケーキが店頭に陳列されている。
 店の雰囲気はよく、ステンドグラスは華麗で、ここも一つの歴史的な建造物であるかのよう。店員さんの対応も丁寧です。
 御茶屋さんを出て進み、日本よりも安く買えるとのことで、CAMPERでの買い物(かみさんのサンダルです)を済ませ、マッチ売りならぬ魚売りの少女である、モリー・マローン像前で写真を撮る。
 こうして慌ただしくダブリン市内観光を敢行したのでした。

愛蘭土倫敦紀行 ダブリン・ロンドン4泊7日の旅(4)

トリニティカレッジ

 DARTの駅からも海が臨まれます。潮が引き、訪れるときに見た青い海の印象がだいぶ薄れていることに気づきます。そのとき広がっているのは干潟でした。干潟を散策する人たちの姿を、遠くに臨むことができます。DART海浜を進み、この風景を堪能できます。
 
 Pearse駅で降り、市内を駆け足で進んで、トリニティカレッジへ。
 トリニティカレッジは、1592年に設立された歴史深い大学です。今なお国際的にも名門で、特に英文学の分野においてすぐれています。卒業生にはガリバー旅行記のスウィフト、オスカー・ワイルド、サミュエル・ベケットなどそうそうたる名前が挙がります。
 ここの目玉は──あるいはダブリン観光の・アイルランド観光の目玉は、と言ってもいいかもしれませんが──ケルズの書と図書館です。
 ケルズの書は、8世紀に制作されたと言われる聖書の写本で、その装飾は世界で最も美しい、と讃えられています。1日1ページが公開されていて、かってにめくるわけにはいきません。
 訪れたとき、既に閉館まで15分と迫っていました。入り口では半額でかまわない、とのこと。かみさんと二人分で9ユーロ、となります。娘はついてこない、中庭で待っている、と言います。
 突き進んで、ケルズの書を見ます。これが伝説の書だ、という感動とともに、正直、今日開かれているページ、それほど装飾がされていない箇所では、という、膨らみきった期待がみたされぬ感じを覚えもしました。
 そのまま奥へと進むと図書館のロングルームに抜けるようになっています。
 この図書館は、法定納本図書館でアイルランド・イギリスで刊行される全ての書籍が集められる、アイルランド最大の図書館であり、500万を越える書籍を収蔵しています。スターウォーズジェダイアーカイブのモデルとなったとされるロングルームは長さ65メートルあり、吹き抜けの高い天井におよぶまで建てられた漆塗りの頑丈な本棚に、古書がずらりと並び、その古色蒼然として荘厳なありように、人類の集積してきた知というものへの畏敬の気持を抱かされます。
 無数に並ぶ知識人の胸像の列の中にスウィフトのものがあり、その前で写真を撮る。スウィフトは彼の論考をそのままのかたちで、射玉行に組み込んだこともありますが、そのエキセントリックな思考は、全面的な肯定をしがたいけれど、それでも親しみを覚えてしまう、そういう自分にとって思い入れのある人物です。
 短い時間を過ごし、追い立てられるように進んでいくと、土産物販売のショップにでる。なかなか面白いものが陳列されていて、数十人の観光客がいるのですが、「もう終わり、こっちから出てください」という声がかけられていて、みんな外に出されてしまいます。商売っけがなさすぎませんか? と思います。
 中庭でいとこたちとトランプをしていた娘と合流します。
 合流したあと、コインをはじめお土産物など、いろいろなものの意匠に用いられている「最古のハープ」を見落としたことに気づきました。仕方がありません。

愛蘭土倫敦紀行 ダブリン・ロンドン4泊7日の旅(3)

ダブリンの街並み

 澄んだ空の下に、広がる青い海。ダブリン湾は波穏やかで、北端をなすホウス岬までが見渡せる。遠浅の海には、ヨットがいくつも浮かび、日の光を浴びている。
 初めて臨むダブリンの印象は、明るさに満ちて鮮烈でした。
 快晴の僥倖に恵まれて、滅多に見られない姿をしているのだ、と、空港に出迎えてくれて、そこから家までの道のりを車で送ってくれている義兄が教えてくれます。
 灰色の空の下の澱んだ海こそが、ダブリンらしいのだ、と。そしてそうした天気は数時間後には、訪れるだろう、とのこと。
 なるほど、この遠浅の海が雨に煙れば、湾の奥まったところに2本立ち並ぶ威圧的な火力発電所の煙突と相まって、労働者の陰鬱な街、との雰囲気をこれ以上なく高めるだろう、と思いました。
 とはいえ、車窓には、初秋の日差しに彩られた街が広がります。街には緑の木立ちが生い茂り、小ぶりの家が軒をそろえ、かわいらしい煙突を並べています。木々はややもすると野放図に育ち、都会の中にありながら、主のごとく長い年月を過ごしてきたのだと見て取れます。住宅は比較的間取りの似たものが間を開けずに立ち並んでいます。
 高層建築とは無縁の、時代を重ねた街並みに、心は安らぎます。
 北に位置する空港から南に進み、ダブリン市街を抜けて、海沿いにさらに南に進み、郊外へ。塀が取り囲み、門がしつらえてある一区画へと入っていきました。
 姉の家は、引っ越しして間もない、一戸建ての煉瓦造りの瀟洒なものでした。日本ではちょっと手が出せないような、高額な賃貸料ですが、全て会社負担とのこと。
That's quite an investment to keep one expat family happy if Imay say so.
という、「NHKラジオやさしいビジネス英語」の一節をふと思い出してしまいました。
 穏やかな光りのなかで、実に快適な印象のある建物です。この家にも煙突がある。家の中には、煙突に対応して、暖炉がある。姉たちがこの暖炉を使いこなして、アイルランドの長い冬をやり過ごすのかどうかは分かりません。
 しばらく休憩。そして、DARTと呼ばれる、市の中心と郊外とを結ぶ電車に乗り込み、市内観光へと出向きます。18時間を越える飛行機の旅の着時刻が12時で、家には14時頃につき、そして15時45分頃には、再出発、というハードな展開です。翌日の予定に、最も行きたいと思っていたトリニティカレッジを組み込むのが難しそう、ということがあり、どうしてもこのタイミングで市内に行かねばならなかったのです。それでも17時に閉館となるトリニティカレッジの図書館に間に合うかどうか、ギリギリというところ。姉と姪っ子たちとともに、いそいそと出かけます。

愛蘭土倫敦紀行 ダブリン・ロンドン4泊7日の旅(2)

査証取得

 前回、イタリア・フランス旅行の際にも書きました。
 現在、観光目的で訪れるのに、査証を必要としない国が多く海外旅行に慣れたかたでも、あまり査証の取得について、意識されることがないのではないでしょうか?
 ただし、それは日本人にとって、です。日本のパスポートは最強のカードです。国境を越えた移動をしようとするとき、日本人が特権階級にあるということを痛感します。
 国際社会には、厳密なランク付けがあって、下位に属する国々の民は、今なお移動の自由がない、というわけです。
 ともあれ、査証の申請というのは煩わしい作業です。イタリア・フランスはシェンゲン協定国ですから、申請は一つで済みましたが、イギリスはそうではないので、イギリスはイギリスで、アイルランドアイルランドで別個に査証の申請が必要になります。
 つまり、煩わしさ倍増、な上に、イギリスもアイルランドも、査証についての、要件や申請の書類の書式が全て英語。要件を読むだけで、うんざりしてきますが、そのうちに恐ろしいことが分かってきます。
 書類は全て英語で用意してください。英語でないものは、翻訳して公的な証明をしてください、というようなことが書かれています。慌てて、我が故郷の役場のサイトに行って確認するが、英語の書類は用意できない、と書いています。山陰の町役場が、いかに国際社会から孤立しているか、と悪態をついても仕方がないので、さらにネットで情報を得ていくと、自分で翻訳して、翻訳したものを公証人に公証してもらえばよい、ということが分かってきます。
 公証人? なんじゃそら? 耳慣れぬ言葉が出てくるので、さらに調べていくと、世の中には、公証人役場という公的機関があることが分かってきます。誰それが、こういう発言したとか、目の前で署名したとか、ということを公的に証明する仕組みのよう。離婚の際の遣り取りなどで、利用されることがあるようです。勉強になったなあ、と関心をし、そして調べを続ける。神戸には元町大丸近くの、旧居留地にあることが分かります。
 たとえば戸籍謄本については、訳例を紹介してくれているかたもネットにはおられたので、それを参考に自分でも翻訳ができそうです。
 銀行などははじめから英語の書類を用意してくれましたから、結局翻訳しなければならなかったのは、住民票と戸籍謄本それに所得証明の計3通です。所得証明は特に苦労しました。日本語でもいまいち分からないお役所言葉を、さらに英語に直していくので、その作業は遅々として進みません。単数でいいのか、複数なのか、といったことでも悶々としながら、作業を進めていく。
 そうして一週間以上をかけて作った、ヒトの見まねでできた、いかにも怪しい書類を、時間の空いたときに、元町まで持って行く。正直、とても不安でした。本当にこんな手続きが、通用するんだろうか? 
 おしゃれなお店の犇めく旧居留地にあって、公証役場は、それほど大きくはない、殺風景な、まさに村役場の雰囲気でした。
 あまり持ち込まれることの多くない依頼内容であるらしかったようですが、ご年配の「公証人」に、丁寧な対応をしていただけました。ちなみに、この公証、内容を保証するのでなく、「私には英語の能力が十分にあって、精一杯の力で翻訳しました」という文章に私が署名をするのを見届けた、ということを証明するだけです。
 そして、この公証、思いっきり御高額です。一つのセット(住民票・戸籍謄本・所得証明とその翻訳と公証内容がホッチキスで綴じられます)に対して1万円以上がかかります。イギリスとアイルランドそれぞれに提出しますので、費用は2倍になります。あまりの料金に、言葉を失いました。
 ともあれ、そうして苦労して書類を用意して、ネットで査証申請を進めていきました。この入力がまた、煩わしくすぐにエラーになって振りだしに戻ることを繰り返します。
 イギリスは大阪の査証の受付センターに提出。委託の業者がしているのだと思うのですが、それでも申請の際には、大使館ばりに、持ち込み荷物などのセキュリティチェックがあったようです。イギリスの査証の処理はなぜかフィリピンのマニラで処理されるらしく、郵送に時間を要します。申請の受付の段階で、必要書類がそろっているか、チェックされて、それをクリアしてましたので、まず問題はないだろう、と思いながらも、ここにいたるまでだいぶ時間を要し、出発まで1ヶ月をきっていて、気を揉みます。
 提出していたパスポートが、郵送で手元に戻ってきます。イギリスの査証が張られています(ちなみにデザインは、シェンゲンビザとほぼ同等です)。
 ついにイギリスの査証を入手した、という歓びにひたる間もなく、今度はアイルランドに申請。アイルランドは、東京の大使館への郵送での申請です。時間との戦いだ、という焦る気持の中での作業です。
 数日して、アイルランド大使館からメールが来ました。イギリスの査証が取れているのだから、アイルランドの査証は貰ったも同然、と思っていた私の背中を冷たいものが走ります。アイルランド大使館からのメールは、これこれの書類が足りていない、ので用意してください、という内容のものでした。イギリスに対して送ったものとまったく同じものを用意したのになぜ? 
 それは、イギリスではホテルに泊まるのに対して、アイルランドでは姉のうちに泊まるからでした。そのため姉の夫から招待を受けて、アイルランドに行く、という形式にしていたのですが、そうすることで、私の妻と姉の夫の関係を証明する書類が必要となり、姉の夫がアイルランドのこの場所に在住しているという証明が必要となる、という話が出てきてしまったわけなのでした。
 出発までの日もありません。慌てて、アイルランド大使館に電話をして遣り取りをしました。もう日もあんまりない。そんな書類を用意するなんて、現実的にはできない。だったらホテルを予約して申請し直します、という趣旨のことを申しました。
 そんな電話の遣り取りの末、形式的には足りてないけど、十分な内容の書類は用意されているので、今回はオッケー、ということになりました。
 こんなややこしいことについての、アイルランド大使館の日本人スタッフの対応は、誠実で、かつて8年前のイタリア領事館での仕打ちとは、まったく異なり、アイルランドの印象を良くしました。
 こうして、2ヶ月以上の格闘を経て、2国の査証を手にすることができた次第です。